メンバー紹介②
- henkaku5
- 5月14日
- 読了時間: 3分

①名前
カルバ
②入局何年目?
2024年入局/2年目
③これまでの経歴
怒鳴り合いをして退職したり、お局と呼ばれるタイプの意地悪社員に対して会社が何も対応しないことに失望して退職したり、社会人生活の中ではずっと会社との戦いに負けてきました。町工場に勤務していた際、無茶な勤務時間で働く同僚や、理解できない給与体系、ありとあらゆるハラスメントを受ける外国人労働者を見て、労働者の労働環境を良くしたいと思いJAMに入局しました。
④組織変革への意気込み
JAM加盟組合数の減少や、全国的な組織率の低下など、労働組合という組織としての持続性にみなさんも危機感を抱いていることと思います。JAMの結成当時とは、労働者を取り巻く環境も、そして労働者の意識も変わりました。JAMがこれからもみなさんに寄り添える組織であるために、組織変革プロジェクトの一員として頑張りたいです。
⑤自由記述
私は東京ヤクルトスワローズファンです。
第二次世界大戦のころ、私の祖父はインドネシアのハルマヘラ島というところへ派兵されていました。敵兵との戦いというよりも、飢えとの戦いだったと聞いています。物資も充分ではなく、日々を生き延びること自体が困難な環境の中で、祖父は衛生兵として任務にあたり、そして終戦を迎えました。
終戦後、日本へは船で帰還しました。祖父の部隊だけでなく、近くの島で生き残っていたいくつかの部隊の兵士たちも一緒に乗せられていたそうです。過酷な時間を共にした人々が、ようやく祖国へ戻るその船の中に、のちに国鉄スワローズの投手となる人物がいたと聞きました。
帰国後、祖父は会社員として働く一方で、その投手が所属するスワローズの試合を観戦するようになりました。私の父やその兄弟たちも連れて行っていたようですが、残念ながら全員が別のチームのファンになってしまい、祖父はひとりで球場に通い続けていたそうです。
やがてその投手が引退すると、祖父の足は球場から遠のいていきました。それでも、私が生まれてからは数回、神宮球場へ連れて行ってくれました。当時はヤクルトスワローズは黄金期を迎えており、強いチームの試合は観ていて純粋に楽しいものでした。
そのため、父たちとは違い、私はあっさりとヤクルトファンになりました。祖父自身はその頃にはすでにスワローズファンではなかったのかもしれません。もともとチームそのものではなく、帰国の船で一緒だった投手個人を応援していただけだったのだと思います。それでも、祖父に連れて行ってもらったあの数回の体験が、私の中で確かなきっかけとなりました。祖父が亡くなった今でも、変わらず応援を続けています。
つまり、私が東京ヤクルトスワローズファンになったのは、祖父がきっかけだったのです。
機会があれば、私がどうして大日本プロレスファンになったのかもお話させてください。それでは。




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